〇〇の考え、休むに似たり
前に、家事をしながら聴く学習をするといいよ!ということを言っておいてなんなのですが
無心に家事をするのもいいかもね!
ということを言ってみます
禅寺でもよく修行の一環として掃除をしますよね
あれって、無心になって、単純作業に没頭することに効能があるからではないでしょうか
瞑想でも、座禅でも、浮かんでくる考えを、雑念と呼んで、止めるように心がけますよね
どうやら、人間は、考えない方が良いことがあるようです
少なくとも、あえて考えない時間をとる、ということが必要なのではないでしょうか
思考を止める必要があるかといった場合、ぐるぐる思考だけが回って、止まらなくなってしまう、という弊害がまず挙げられると思います
たとえば、受験に失敗したらどうしよう!という不安。まだ試験日まで数カ月あるのに、心配で心配で全然勉強に集中出来ない
まだ失敗してないのに、未来のことをやたら恐れてしまう
これは、思考により、存在しない失敗を想像し、今現在それがまさにあるように感じて、恐怖してしまう状態です
ものすごくバカげたことですが、私はこれ、実際に陥りましたー
こういう弊害が、思考にはあるわけです
また、思考の性質として、物事を分類し、既存の概念に定義づけしてしまう働きに注目する必要があると思います
確かに、複雑な事象を分類して、これは外交の問題、これは経済の問題、など、自分が理解している問題として振り分けるのは、とても大切なはたらきです
でも反面、物事をバラバラに分解して、既存の概念として捉えるということは、その事象そのものを捉える、という事にはならないと思います
ですから、既存の問題を効率良く処理していくのに、分析的思考は有用ではあるものの、新しく生じてきた問題に対し、革新的で、創造的な解決策を模索したい、というような場合には、分析的思考では足りないことがあるのではないでしょうか
こういう場合には、思考を止めることにより、直面している問題そのものを、包括的に捉える必要があるのかもしれません
また、その解決策を模索するにあたっても、思考を止めて、自分を超えた偉大な存在に解決をお願いする、という姿勢が大事なのではないかと思います
思うに、思考には、その分類的なはたらきによるためか、自分を世界から切り離し、狭い空間に閉じこもるような傾向があると思います
なので、思考を止めることにより、閉じこもっていた殻を破り、自分を包んでいる外の世界と繋がることができるのではないでしょうか
この、繋がることのできる世界は、人により、特定の神であったり、周りの自然であったり、ご先祖様だったりするかもしれません
私は、脳の普段使えてない部分、無意識の領域?みたいなものが、思考を止めることで活性化するのかな?と思ってます
世界には、とんでもない脅威とか、不正義などがあり、知れば知るほど、どうにかしなくては!と気が焦ります
しかし、その問題について思考してみたところで、一私人がそうどうこうできることではありません
考えても鬱々としてくるばかりで、有意義な対処策が思いつくことは稀でしょう
ですので、こういう時は、思考を止め、祈り、瞑想など、言い方は色々ありますけど、偉大な存在に問題を委ねてみるといいのではないでしょうか
すると、思わぬ方向から問題が解決するかもしれません
そういう話をよく聞きませんか?
そうわかっていても、なかなかうまくはいかないのですが…
それでも、お墓や神棚や神社に向かって、手を合わせて頭を下げるとき、何も考えられなくなって、スーッと頭の中身が吸い込まれていくような感覚を覚えることがあります
こんなときは、良い状態なのかもしれませんね